東京高等裁判所 昭和34年(う)835号 判決 1960年2月17日
被告人 川上富美子
主文
本件控訴を棄却する。
理由
所論の要旨は一、本件新産児は、生活能力なく仮死状態で出産したもので、直ちに蘇生術を施されず放置されたため、出産後十五分ないし三十分程度以内に自然に死亡するに至つたものであつて、被告人が殺害したものではなく、被告人の所為は単なる死体遺棄に過ぎない。しかるに、原判決が本件は普通の状態における出産であり、被告人の殺害行為により死亡したものと判断したのは、採証の法則を誤り事実を誤認し且つ理由不備の違法を冒しているものである。二、原判決が本件新生児の死亡原因を「寒冷のための生活機能の低下と新聞紙等に包んだための呼吸困難に基く窒息死による。」ものと認定したのは、審理不尽の結果理由不備ないし事実の誤認に陥つたものである。三、原判決が採証の用に供した矢沢克己作成の鑑定書の内容は証拠価値がないのに、原審はこれを最も重要な証拠として採用したため事実の誤認に陥つたものであるというに帰するのである。
よつて按ずるに、原判決挙示の各証拠、なかんずく医師矢沢克已作成の鑑定書及び同死因追加書(その内容は、一部当審の認定に反する点を除き所論のように証拠価値のないものであるとは認められない。)と当審における鑑定人上野正吉作成の鑑定書とを総合して考察すると、被告人川上富美子が原判示日時分娩した産児は、右上野正吉の鑑定書中鑑定の結果として記載されているとおり、一、生産(仮死分娩を含む)であり、二、足位娩出に起因する仮死第一度の分娩であり、その後蘇生することなく、死亡したものと認められ、三、但し、被告人の供述による右産児の水中投入時まで心搏動を持続していたかどうかについては何れとも判断できないものと認めるのが相当であり、なお、これに附随して本件解明の資料となるべき左記の如き諸点が認められるのである。
1 本件新生児は、成熟児の示す平均在胎期間二百七十日を経過して分娩されたもので、妊娠第十ヶ月に入つた胎児程度の成熟度であり、恐らくは成熟に近い状態で分娩されたものと推定され、早産児であるとしても十ヶ月中頃に近い早産児と推測されること。
2 本件新生児は、充分の生存能力を持続していたものと考えられ、肺浮遊試験が陽性であつたことは、肺内に呼吸による空気が進入していたことを示している。すなわち、本件については、第一呼吸の存在を全く否定できるというものではないが、もし力強い第一呼吸のうぶ声が聞かれなかつたのが真実とすれば、第一度の仮死(軽症)状態にあつたのではないかと推定される。この第一度仮死においては、声帯をふるわせる事なく、空気を肺内に吸引していることがあり得るもので、これによつて「肺浮遊試験陽性」という結果も招来せしめ得るし、結局本件の場合は、弱度の吸引作用は行われていたと見られること。
3 本件については、新産児仮死を来たす原因である母体の妊娠中毒症は否定できる。但し、被告人の狭骨盤は第二度で、この場合は、産児の死亡率は五ないし十パーセントで相当高いが、本件の場合には狭骨盤は胎児に悪影響を及ぼしたとは考えられない。ただ、足位で分娩したことは、娩出後産児が仮死状態に陥る危険を孕んでいる。もし本件新生児が生産で、第一呼吸のうぶ声を挙げたということがないものとすれば、恐らく仮死状態で分娩されたもので、その原因は子宮内における胎位の異常にあり、このため分娩が足位で行われたことが原因であつたと推測される。矢沢克已作成の鑑定書における死体の解剖所見の上では、本件新生児が仮死分娩であつたという証拠は見当らないが、その存在の可能性があることは前記のとおりであるし、なお、仮死分娩から死亡した場合には、その解剖所見には特有なものがないこと。
4 本件が第一度の軽症仮死分娩の場合であるとすれば、その対策として、充分な保温処置をとることが必要であり、次に気道内に吸引している物を排除し、背部を摩擦する等で皮膚に刺戟を与え、最後に人工呼吸法により又は機械的方法により人工的に肺に空気又は酸素を送入すること等により、多くの場合蘇生させることができるが、かかる処置を全くとらず、身体が濡れたままで新聞紙や風呂敷に包んでおく等の事のみでは、蘇生し得ないのは当然であると考えられること。
5 本件新生児がその生存中に水中に投入されたとする根拠には、何ら確実なものがなく、本件犯罪地すなわち静岡市内(実際は富士市)において、二月三日頃であつても、普通の成熟児で、分娩もその後の第一呼吸も正常に経過したものである場合には、出産後十五分ないし三十分間これを室内に放置し、何ら保温を加えなくても、寒冷により死亡することはない公算が大きいが、仮死状態である新生児では、これにより死亡することがあり得るとするを妥当とすること、この場合には、如何なる解剖所見を呈するかについては、外表に何ら局所所見のないことが多いこと。
6 窒息死でも時に血液が完全に流動性であるといえない場合があるから、血液の流動性のみで、その死因が窒息死であるなどとすることはできないこと。
7 本件解剖所見の上では、普通嬰児殺の方法である鼻口閉塞による窒息、扼頸、絞頸、溺死、脳損傷等の証拠は見られないこと。
ところで、以上のとおり、被告人の分娩した嬰児が、客観的には仮死第一度の生産児であると認むべき反面、被告人がこれを生産児と考えていたか死産児と考えていたかという点について考察をすると、原審において適法の証拠調を経た被告人の司法警察員、検察事務官及び検察官らに対する各供述調書の供述記載、医師山中秀夫作成の診断書の記載等を前段認定の結果と併せ考えると、被告人は妊娠中軽度の妊娠性浮腫と診断されたことはあつたが、これは本件仮死分娩には何ら影響はなかつたと看做すべきであり、その他に何ら異常妊娠、従つて異常な分娩を招来すべき原因を自覚しないまま時を経過し、ついに予定された分娩期日たる昭和三十三年二月三日に至り女児を分娩するに至つたものであることが明らかであり、分娩に際しても、被告人が本件は死産であると考えたと認むべき事由は発見することができないのである。のみならず、被告人は「子供は動いていた様に思いますが、声を出して泣いた事は覚えていない。動いていたことは覚えはある。」(昭和三十三年三月十二日付司法警察員に対する供述調書)「その産れた子供の足が動いた様な気がした。然しどんな風にして動いていたかはよくみないので判りません。」(同年十月十日付検察事務官に対する供述調書)「胎児の動くのは一月末迄感じている。産むまで別に胎児に異常がある様にも感じなかつた。ですから私は胎児は生きて生れて来るだろうと考えていた。私が子供を最初みたのは生み落した直後で、その見た時左足がちよつと左の方に動いた。それで子供が生きているということが判つたのです。」(同年十月十三日付検事に対する供述調書)といつている位であるから、本件嬰児がうぶ声をあげたという確証はないにもせよ、被告人が本件嬰児は、死産ではなく生産であると考えたことは疑がなく、また、このことは前記認定のとおり、本件嬰児はたとえ仮死状態であつたとしても生産児であつたという客観的事実と符合しているわけである。
しかるに、前記被告人に対する各供述調書の供述記載によると、被告人は「生れた子供を始末しなくてはと思つて新聞紙に包んでその上を風呂敷に包んで、その包を持つと勝手場から出て裏の小さい橋がありますが、そこまで持つて行きそこから川の中に落したのであります。」(右司法警察員に対す供述調書)「そこで私はすぐ家の人に判らない様に早くなんとか処置してしまおうと考え、先ず持つて来た二枚の風呂敷を重ねてその上に更に新聞紙を乗せ板の間の処に産んである子供を右の風呂敷や新聞紙の上に乗せました。そんなにして私は子供を新聞紙で包む様にし風呂敷をその上から二枚一緒に結びました。そこで私はすぐ子供の入つた風呂敷をさげて裏のお勝手場の方から出て玄関の方に廻り玄関の前の道を右すなわち南の方に五、六米位行くと川があり、そこから今度は二、三米東へ行つた川の渕に行き、その川渕の一段低くなつて洗い物をするようになつている処に降りて持つていた風呂敷を水の中に流しました。」(右検察事務官に対する供述調書)「私はその時誰にも判らない様にこの子供を風呂敷にくるんですぐ近くの大川に流してしまおうと考えたのであります。それから私は風呂敷二枚と新聞とを持つて参り便器の北側の板の上にこれをおいて子供をこれにのせてくるんでしまつたのです。」(右検事に対する供述調書)等供述しており、これによれば、被告人は本件嬰児が生産児であるということを認識していたに拘らず、これが生存に必要な何らの保護をすることもなく、却つて新聞紙及び二枚の風呂敷をもつて包んでこれを水中に投棄したものであり、被告人には嬰児に対する殺意があつたと認むべきことは当然であるといわなければならない。
この点について所論は、前記のとおり本件嬰児は仮死状態で出産したもので直ちに蘇生術を施されず放置されたがため、出生後十五分ないし三十分程度以内に自然に死亡するに至つたものであると主張しているが、本件嬰児の死亡の時期が所論の如く分娩後十五分ないし三十分後であることは前記鑑定の結果に徴しても確認し難いところであるのみならず、仮に嬰児が右主張の時間内に死亡するに至つたものであるとしても、それは必ずしも被告人に何ら死亡に関する責任がないことを意味するものではないのである。
その理由は、被告人は前段認定のとおり、嬰児が生きて産れたことを認識していたのであるから、母親として、直ちに嬰児の生存のため必要、適切な保護をなすべき義務があつた筈であり、故意にこの義務を履行せず、よつて嬰児の死亡の結果を招来したときは、その責任を負わなければならぬことは当然であるというべきであり、換言すれば、本件嬰児は仮死状態であつたとはいえ、前段説示4の如き手段をとるときは十分蘇生の機会があるわけであるから、通常の母親であれば、当然嬰児の生命保持のため適当の措置をとつたに違いないが、被告人は従来からの供述によつても明らかなとおり、妊娠していることさえ家人に秘していた位であつて、本件嬰児もひそかに闇から闇に葬つてしまうという考であつたから、何人が考えても必要だと考えるに違いない保温の措置すら故意にとらず、嬰児を分娩したままの状態で便所の板敷の上に放置し、且つ新聞紙や風呂敷につつんでこれを水中に投げ込んだものであるから、結局被告人は殺意をもつて生命のある嬰児の生存に必要な保護をなさず、よつて嬰児が仮死の状態から蘇生すべき機会を奪い、よつてその死亡の結果を招来させたものといわざるを得ない次第である。これに反し分娩直後、何らの保護手段を施すいとまもないうちに嬰児が死亡したので、被告人もまたこれを確認した上、単に死体遺棄の犯意に基いて、前記所為に及んだものであるというような事実は到底これを認めるに足りない。
すなわち、以上のように観察するときは、仮に嬰児が自然に放置されるときは分娩後十五分ないし三十分間に死亡すべかりしものとしても、被告人は嬰児の母親として保護責任を全うすることにより、これが蘇生をなさしめるべき十分の機会をもつていたに拘らず、嬰児の生命を絶つ意思をもつて、故意に何らの保護をも与えず嬰児を分娩された状態のまま放置したのみか、新聞紙、風呂敷包につつんで川の中に投入するというような所為を敢てしたのであつて、これらの所為が嬰児から蘇生の機会を奪い、その死因に寄与したものであることは否定し難いから、所詮、被告人は本件嬰児殺害の責任を免れることはできないといわなければならない。
次に、本件嬰児の死亡は、被告人が前記の如く殺害に基き故意に保護責任を果さなかつたことによる「寒冷のための生活機能の低下」に原因するものと認むるべきことは、前段説明5の示すところによつても明らかであるといわなければならないから、原判決がこれと同旨の判示をしたのは洵に相当であるが、原判決が嬰児の死因はそれに止まらず、なお「新聞紙等に包んだための呼吸困難に基く窒息死にもよる」旨認定した点は、前段説明6に照しても明らかなとおり、血液の流動性だけで窒息死であると断定することは躊躇されるという意味で、やや正鵠を失している嫌いがあるといわなければならない。しかしながら、被告人が殺意をもつて本件嬰児を死に致したものであることが前記の如く明らかである以上、これと同旨に出でた原判決の結論は相当であつて、たとえ死因の認定の一部に過誤があつても、それは判決に影響を及ぼすべき事実の誤認とはいえないから、原判決破棄の理由とするには足りないのである。
以上これを要するに、原判決挙示の証拠を総合すれば、原判決の事実認定は結論において正当たることを失わず、記録を精査し、当審における事実取調の結果を参酌しても、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認は存在しないのみならず、所論の如き審理不尽、理由不備等の過誤もまた存在しない。所論は、原審の採用した矢沢克已作成の鑑定書の内容が証拠価値がないといつて攻撃するけれども、右鑑定書は当審における上野正吉作成の鑑定書に比しその内容において不充分な点なしとはしないが、その内容は当審の前記認定に牴触する点はさておき十分信用できるものと認められるから、原判決がこれを事実認定の一資料としたことは毫も誤りではない。
以上のとおりの次第であつて、論旨はすべて理由がないのであるが、ここに若干被告人の犯情について考察をするに、本件記録によれば、被告人は杉山照義に誘われ、同人と情を通じ、その子を懐胎するに至つたものであるが、その後杉山は自分の縁談が持上つたため、被告人を避け冷淡な態度をとるようになり、被告人もこのため一たんは妊娠中絶を決意したが時機を失し、爾来父母にも事情を打ち明けられないまま悶々の日を送り、その間自殺を決意したこともあつたがそれも果さず、ついに原判示の如き分娩の日を迎え、前記嬰児殺の所為に及んだのであるが、被告人をここまで追いつめた責任の大半はやはり右杉山の負うべきものであるといわなければならず、同人の無責任、冷淡な態度は糺弾されなければならない。しかし、被告人としても事ここに至つたのは、自分の責任でもあることは疑ないのであるから、犯した罪に対しては正当なつぐないをすべきことは当然である。それ故、原審が、被告人は嬰児殺の責任は免れないが、その犯情は憫諒に値するものがあるとし、殺人罪の所定刑中有期懲役刑を選択した上これに酌量減軽を施し、よつて被告人を懲役二年に処すべきものとし、なお情状により三年間右刑の執行を猶予すべきものとしたのは、その罪は罪とし、その情状は十分酌むべきものであるという態度のあらわれであつて、この原審の科刑は洵に相当であるといわなければならない。被告人としては、よろしくその趣旨を理解し、自己の所為を正確に認識した上、反省を重ね、もつて将来の更生を誓うべきである。
よつて、刑事訴訟法第三百九十六条に則り、本件控訴を棄却すべく、当審における訴訟費用は同法第百八十一条第一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判官 三宅富士郎 東亮明 井波七郎)